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カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」近親姦と父殺しの物語

カール・テホ・ドライヤーを初めて見たのは2003年、有楽町朝日ホールのピアノ伴奏つき「裁かるるジャンヌ」だったか、それともアテネ・フランセでの特集だったか。ファイリングしてある当時のフライヤーを見ればいいのですけど、どうも記憶をはっきりさせる必要を感じません。ちょうど今読んでいる吉田喜重「変貌の倫理」に、「父ありき」(小津安二郎)についての彼自身の記憶の曖昧さを書き綴っているように。

さて、ここ一週間で見た映画は、

  • 吸血髑髏船(松野宏軌、1968)
  • セロ弾きのゴーシュ(高畑勲、1981)
  • 吸血鬼ゴケミドロ(佐藤肇、1968)
  • 昆虫大戦争(二本松嘉瑞、1968)
  • あるじ(カール・テホ・ドライヤー、1925)
  • 怒りの日(カール・テホ・ドライヤー、1943)

「怒りの日」が「裁かるるジャンヌ」と質を異にすることを、語られず否認されることによって逆説的に炙りだされる罪、「近親姦」「父殺し」に焦点を絞って書いてみましょう。

魔女を罪の暗喩、暗示と捉えた場合、その罪状は(父なる)法を内面化した者が媒介し、それを突きつけ、判決が下される。その視点でヘアロフス・マーテの次の言葉に注意すると、

天国も地獄も怖くない。死ぬことだけが怖い。

カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」

判決、謂わば罰への恐怖が伝えられているだけであって、ヘアロフス・マーテは法を内面化していません。裁きからすれば、それは有罪になるでしょう。裁きの所有は他者にあるはずで、他者にある限り、法を内面化したとしても裁きは下されます。罪は「見られる」という他者からの視線のようなものであって、一見裁きを所有し、法に仕える者にも実は等しく下されます。それは「アンネとマーチンの」父の死直前の言葉に端的に表現されています。

立ち会ったすべての死の床について考えた。そこには罪しかなかった。

ここに罪と罰は、個人の内面で完結するのではなく、他者との関わりに見出されるものとなっています。

アンネとマーチンの蜜月に場面を遷すと、(そこではまだ)アンネは罪(不倫)の否認、マーチンはその内面化に向かおうとしています。

罪?愛することが罪なの?

僕の…でも父さんの妻だ!

カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」

ここで語られない、二人が真に否認しているのは近親姦であって、それは二人だけでなく映画全体によって隠蔽されつづけられます。

クライマックスにおいて、マーチンは遂行した近親姦とそれに端を発する父殺しを、彼の姉、もしくは妹にして母であるアンネに投影し、魔女として悪い対象に仕立てる。

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「怒りの日」で解決されない違和感は、どうもアンネとマーチンが何者なのかというアイデンティファイの欠如にあるようで、血の繋がりは母を同じくするのか、父を同じくするのか(語られないマーチンの母がかつてあったのか)、父母を同じくするのか、それとも血の繋がりはないのか語られません。しかし、血の繋がりにフォーカスしなくとも、近親姦の欲望は暗喩として脈々と機能しえるはずで、欲望はアンネ・マーチン以前に父に端を発すると言ってよいでしょう。

判決を下す人々

カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」

書物の特権

カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」

エクリチュールの特権

カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」

ドライヤー、奥行きのない絵画的な平面性

カール・テホ・ドライヤー「怒りの日」
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